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孤独は寂しくて辛いもの?「星月夜」に描かれた究極の孤独

多くの人は孤独を恐れます。

しかし現代ほど孤独になりにくい時代は無いと思います。

その背景にインターネットの発展があることは言うまでもありません。

だから現代人は孤独との向き合い方が分からなくなっているのではないでしょうか?

今回はその辺について考えてみました。

孤独は寂しい、辛い?

冒頭で述べた、「現代人は孤独との向き合い方が分からなくなっている」とはどういうことか?

それはネットのおかげで孤独による寂しさや辛さは、

逸らすもの、紛らわすもの、避けるもの

になっているということです。

例えば学校から帰宅しても、友達とは好きな時に好きなだけ連絡を取り合うことができます。

遠く離れていても通話しながらゲームすることだってできます。

友達がいなくても、ネット掲示板やtwitterを使えばいくらでも人と繋がることができます。

いくら自分は孤独だと思っても、ネットが孤独を甘やかしてくれるんです。

そういう意味で現代人は本当の意味で孤独になる時間が極端に減っています。

というより孤独を感じたら、その気持ちを逸らし・紛らわし・避ける手段をたくさん持っているんですね。

だから孤独がもたらす寂しい、辛いといった感情に向き合わずに、

とにかく孤独を避けることで得られる安心感を選んでしまうのです。

孤独に耐える?孤独はこじらせろ!

僕は孤独は向き合うものだと思っています。

なぜなら孤独に向き合い孤独を掘り下げることは、

自分がどんな人間で、どんな個性の持ち主か」を知る手段になるからです。

 

僕は小学生の頃は活発で友達の多い子どもでしたが、中学に入ってからビックリするほど孤独になっていきました。

中学生になるとスクールカーストが出来たり、いじめが起こったりします。

「誰々があの人のことを嫌いだ」、「アイツは調子乗ってるからハブこう」とか、

僕はそういうのに加担するのも標的にされるのも嫌で人を避けるようになりました。

そして気付いたら、人との付き合い方が分からなくなって、

休み時間はいつも図書室に籠っているような人間になっていました。

 

孤独になると、

・自分は誰からも必要とされていない
・自分には何の価値もない
・自分には生きてる意味がない

といった自己嫌悪感に襲われるようになりました。

同時に、

・自分は群れて安心してるような奴らとは違う
・自分がこのまま終わるわけがない

という自尊心と傲慢さも同居していました。

中二病ですね。

その時、初めて僕は「自分がどんな人間で、どんな個性の持ち主か」を考えるようになったのです。

 

そもそも僕が自分の個性だと思っていたものは、

他者との比較による特徴・価値観でしかないことに気づきました。

だから僕はその個性と向き合って、何らかの形でそれを克服する必要がありました。

「自分は他人と比べることでしか存在意義を確認できない」

という虚無感が僕の尊厳を脅かしていたからです。

 

現代はネットのおかげで、全員が表現者になれる時代です。

しかし人と違うことをしたり、お洒落な写真を撮ったり、奇抜な意見を言うことが個性的だとは僕は思いません。

本当の個性は、個性を克服した先にあると考えているからです。

例えば、孤独になって自分には何もないと感じて、

自分の個性だと思っていたものが、自分を悩ませていることに気付いた時。

僕の場合で言えば、

・学校というコミュニティに上手く溶け込めない内向的な性格
・自分は他人より優れているはずだという臆病な自尊心

この二つの個性が僕を悩ませていました。

そこから自分の価値や存在意義を見出そうとすることには大きな苦痛を伴いました。

なぜなら、何も見つからなくて自己嫌悪に陥るからです。

 

しかし、自分が薄っぺらで空っぽなことに気付けたのは幸せなことでした。

気付きさえすればそこをスタート地点として、自らを成長させて高めようと努力することができるからです。

本当の個性とは自分自身に向き合ってそれを乗り越えようとする、そのプロセスに宿るものではないでしょうか。

だから孤独は耐えるものではないし、避けるものでもありません。

とことん向き合うものなのです。

孤独に耐えられる人はいない?

歴史上の偉人や芸術家には孤独な人が多いです。

彼らは各々のやり方で孤独と向き合い、それを乗り越えて歴史的な偉業を成し遂げてきました。

例えば、作家の宮沢賢治は孤独と向き合いながら作品を作っていたことが分かります。

銀河鉄道の夜』、『よだかの星』、『猫の事務所』などにはそれがよく表れていますね。

個人的に好きなのは教育学者の齋藤孝さんが『孤独のチカラ』でも紹介していた、

告別』という詩です。

※長いので部分部分で省略しています。

『告別』

おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい

(中略)

けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけずられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や材というものは
ひとにとゞまるものでない
(ひとさえひとにとゞまらぬ)

(中略)

そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ

もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光りの像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌うのだ
もし楽器がなかったら
いゝかおまえはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり
そらいっぱいの
光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ

宮沢賢治『春と修羅 第二集』「告別」

この詩は、賢治が教員を辞めるにあたって生徒たちに残していったものです。

孤独に寄り添った優しい視点から賢治の人柄が伝わってきますね。

同時に、自分を鍛えることをやめてしまったら「おれはおまえをもう見ない」と言い切る毅然とした厳しさもあります。

孤独を知らない人にこんな詩を作ることはできません。

賢治は孤独のもたらす「さびしさ」、「窮乏」その全てを音にして歌えと言っています。

それは賢治自身が孤独に向き合って作品を作り続けてきたからこそ、確信をもって言えるアドバイスだったのでしょう。

「星月夜」に描かれた孤独

フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

こちらは19世紀のオランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホが描いた「星月夜」です。

煌々と光る星と月、うねるように荒れ狂った空、天へと伸びる糸杉。

「わー夜景キレイ♪」とかそんな次元を超えたとんでもない作品ですね。

ゴッホもまた生涯を通して孤独に苦しみ、自分の個性(内面)と戦い続けた人物なのです。

 

この絵が描かれたときゴッホは孤独と絶望のどん底にいました。

仕事をしても上手くいかず、牧師になろうとするけど上手くいかず、恋愛も上手くいかず、

一緒にいれば弟とも上手くいかず、仲のよかった友達とも上手くいかず、

頼みにしていた絵の世界でもまったく上手くいかない。

町では「彼は精神異常者で危険だから追い出そう」と言う署名運動が起きて、

ゴッホは自主的にサン=レミの精神病棟に入ります。

そして病室の窓から夜明け前の空を眺めてこの作品を描いたそうです。

 

こんな悲しい作品背景ありますかw

仕事が上手くいかないとか、人付き合いができないのは言ってしまえば自己責任です。

でも最も情熱を注いでいた分野でまったく評価されないというのはかなりキツイですよね。

何もかも上手くいかず、全てを託していた絵でも認められない。

僕は何の前知識もなく初めてこの作品を見たとき、単純に綺麗な絵だと思いました。

同時に、なんで全てがうねうねしてて星と月がこんなにギラギラしてるのかと考えました。

その時、「目に涙を浮かべてるときの街灯の明かりとか外の景色ってこんな感じに写るよなー」と思ったんですね。

だから僕は作品背景を知った今でも、

病室の窓から夜空を眺めていたゴッホの目には、大粒の涙が溜まっていたんじゃないかと思っています。

まとめ

■孤独は辛くさびしいもの

■孤独は耐えるものではなく向き合うもの

■孤独に向き合うことで自分自身を知ることができる

■自分自身を知ることで個性が生まれる

現代では孤独は「ぼっち」と呼ばれ、嘲笑や自虐などのネガティブな意味合いで使われることが多いです。

しかし、孤独であることは悪いことではないし恥ずかしいことでもありません。

自身を大きく成長させてくれるチャンスと考えることができます。

 

どこにも居場所がなくて苦しいと感じているなら苦しいままに、

人からどう見られるか気になってしまうなら気になってしまうままに、

あなたはあなたのパイプオルガンをめいっぱい弾けばいいのです。

おまけ

孤独になりなさい。

街のきらめきから離れて独りになりなさい。
笑い声や賑やかさや甘い誘惑から遠く離れて、あなた自身になりなさい。
親からも遠く離れなさい。

今はわからないかもしれないが言っておこう。
孤独は淋しいものではない。

なぜならば、きみが本当に孤独になったとき、きみは自分の運命の輝かしい顔を初めて見ることになるからだ。

すなわち、きみ自身にしかできないことをようやく発見することができるだろう。
そのとき、きみはきみ自身を知る。
それこそが、本物の大人になることなのだ。

白鳥春彦(2015年)『超訳 ヘッセの言葉』p29

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