中島敦の『山月記』は、多くの人が高校の授業で読んでいるかと思います。
この作品は何故、教科書に載っているのでしょうか?
そして、どうして名作とされているのでしょうか?
その理由は、国や時代に関係なく普遍的に多くの人が抱える苦悩を描いているからです。
それが格式高い文章で短く、分かりやすく、面白くまとめられているのだから教科書に載せない理由がありません。
今回は『山月記』についてあれこれ考えてみました。
目次
Q、李徴が虎になった理由は?
A、強すぎる自意識に飲み込まれたから
李徴は非常に優秀な人物で、本人にもその自負と自身がありました。
その実力は若くして役人になるほどで、自他ともに認めるエリート中のエリートです。
そんな李徴は仕事を辞めて詩人として生きていくことを決意します。
詩作に励むこと数年、思うような結果が得られなかった李徴は再び元の職場に戻ってきました。
そこでは以前の同期が上司となっていて、李徴は彼らに使われる側になっていました。
それから1年後、李徴は発狂して虎となり行方不明になります。
山月記で最も印象的なのは「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」という言葉です。
分かりやすく言うならこの二語は「強すぎる自意識」と言い換えることができます。
詩の世界で名を残せずに元いた場所に戻ってくるという恥ずかしさ。
そして今まで馬鹿にしていた同期たちの部下になるという屈辱。
仕事を辞めてまで出ていった手前、この気まずさは半端じゃないですね。
李徴の抱えていた自尊心と羞恥心は次項で詳しく説明していきます。
李徴の自尊心と羞恥心
■自尊心
自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する気持ちや態度。
■羞恥心
恥ずかしく感じる気持ち。
『山月記』が高校の国語で使われるもう一つの理由は、多感な高校生が自意識をこじらせやすいからだと考えられます。
・自分には才能がある
・自分は称賛されるに価する
・自分にはセンスがある
こういった気持ちが自尊心。
自分に自信があって、得意な分野で結果を出したいと思うのはいいことです。
しかし、その自意識が強すぎたりそこに羞恥心が入ると、
・もしも才能がなかったら…
・もしも結果が出せなかったら…
・もしもセンスがなかったら…
という恐怖心が芽生え、挑戦しないことで自尊心を守り続けるようになってしまいます。
高校生はもちろん大学生でも大人になっても、
ずっと自意識が強い人って滅茶苦茶たくさんいます。
実際、僕も自意識過剰でした。
なぜなら、怖いからです。
自信を持っていた分野で打ちのめされたり、自分が何の才能もない圧倒的な凡人だったと思い知らされたら。
半端にお山の大将だったりすれば、盛大に負けた時の周りの目が怖いです。
「なんだこんなもんか、あいつ凄くなかったな」
なんて言われようものなら、がっかりされようものなら、落ち込んでしまいます。
李徴が抱えていた「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」もまさにこの気持ちだったのではないでしょうか。
『山月記』の虎が象徴しているもの
「自信はあるけど、もしも才能がなかったら…」
分かりやすく言えば李徴は詩人になる以前の段階で、ビビってしまったのでしょう。
自分自身に向き合うことが怖くて、人から詩を学ぼうとしたり切磋琢磨しようとしなかったのです。
「自分は凄い才能の持ち主で凡人とは違う」
人に傷つけられたり、なめられるのが嫌で横柄に振る舞って孤独にもなりました。
実力が評価されるような舞台に上がらなかった後悔。
傷つくのが怖い癖に自分の才能を諦めきれない未練。
見下していた人の下で働くという屈辱。
こういった諸々の感情そのものが、人の心に潜む虎だと考えられます。
つまり『山月記』では、李徴の心の中の虎が具現化していたのです。
李徴が虎にならないためにはどうすればよかった?
作中では李徴が本当に虎になってしまいますが、目には見えなくても虎になっている人は大勢います。
たとえば
・漫画家を目指しているけど持ち込みはしない、人には見せないという人
・恋人が欲しいのに異性と交流しない、自分からは話しかけないという人
・起業したいと言っているのに、具体的な行動は起こさず理想だけを話す人
その他にはテスト前に「勉強全然やってないよ」、運動前に「足が痛いからベストなパフォーマンスは出せないかもしれない」、ことに取り組むにあたって「別に本気でやろうとは思ってないから」、といった失敗や敗北への保険をかける人。
現代では大小様々な形でほとんどの人が自分の中に虎を飼っているのです。
結局、その人に才能があるか、夢を実現できるかは行動を起こしてみないと分かりません。
やる前から失敗や、負けた時のことを考えてビクビクして動けなくなってしまうのは問題外なんですね。
李徴は科挙に合格して役人になるほどの秀才(現代で言えば官僚になる感じ)です。
もしかしたら詩の才能もあったかもしれません。
しかし、人と交流せず誰とも競わないならその実力が評価されることはありません。
安定した仕事を辞めて夢を追いかけるまではよかったけど、そこからもう一歩進むことができなかったのが李徴の失敗の原因と言えます。
では、李徴はどうすればよかったのでしょうか?
答えは簡単。
詩人になるために一生懸命頑張ればよかったのです。
詩人として成長するためなら、人に教わったり切磋琢磨することが大切です。
しかし李徴は自尊心と羞恥心が邪魔して、それができませんでした。
そして才能がないかもしれないことに向き合うのが怖くて、本気で努力することを怠ってきました。
つまり、詩人になるためにできる努力を全てこなしてきたとはとても言えないのです。
人前で詩を披露して、笑われたり馬鹿にされたりしても気にしなければよかったのです。
人がどう言おうと黙々と挑戦し続ければよかったのです。
そしてやれることを全てやった末に才能が無いと感じたなら、
一生懸命戦って負けたのなら、誰も李徴を哀れんだりはしなかったでしょう。
李徴は己の個性と戦うべきだった
李徴が詩人として生きていくことを決めたのだったら、彼は己の個性と戦うべきでした。
ここで言う個性とはもちろん、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のことです。
こんなもの個性であって、個性でないですよ。
何故なら自尊心と羞恥心は誰にでも備わっているからです。
この苦しみ、恐怖を乗り越えなければ、李徴は詩人としてのスタートラインにすら立てないまま。
つまり、李徴は表現者として何かを表現できる次元に立っていなかったのです。
考えているのは、自分は凄い、才能がある、評価されたい、失敗して傷つくのが怖い。
どこまで行っても自分、自分、自分のことばかり。
それも、内省というよりは他人からどう見られるかを気にしているだけなんです。
だから李徴の視点は、自分を見ているようでその実は外部に向かっているのです。
引きこもって、でもチラチラと外の様子ばかり気にしているから自分の内面は見えていません。
これでは小手先でいい詩を作っても、心に迫ってくるような何かは表現できないでしょう。
しかし、物語の後半で李徴はとうとう自分が虎になった理由を告白します。
それは前にも書いた通り、李徴の持つ「強すぎる自意識」でした。
李徴が虎になった理由は決して悲しい運命や不幸ではありません。
自分の心が作り出した自意識が虎となって現れていただけなのです。
ようやく自らの自意識に向かい合った李徴ですが、皮肉にも人としての理性が残されているのはあとわずかでした。
朝日が昇り、白んでくる空、沈んでいく月。
沈んでいく月に消えていく李徴の理性がかかっていて、ラストシーンは切なくて綺麗な余韻を残します。
『山月記』の作者の意図、作者が伝えたかったことは?
時間が経てば誰でも学校を卒業して成人して大人になっていきます。
しかし、思春期に強すぎる自意識を持っていた人は、
いくら形のうえで大人になっても、心はいつまで経っても子どものままです。
作者の中島敦が伝えたかったことは、
・自分の心に向き合うことの大切さ
・保身のために挑戦を避けたり、自身を偽ることへの戒め
ではないでしょうか?
たとえば、傷つくことや失敗を恐れて、舞台には上がらないけど評価はされたい人って、滅茶苦茶ダサいです。
でも、人である以上誰もがそういったダサさを少なからず持っています。
そして多くの人はそのダサさと向き合うのではなく、隠すことに力を注ぎます。
それは、
・強気な態度や立ち振る舞いをする
・群れることで安心感を得ようとする
といった外面をよく見せようとする行為に表れたりもします。
でもいくら外面を整えても、心が弱いままの人はいつまで経っても不安感やモヤモヤが消えません。
いくらお洒落な格好をしても、
いくら充実した日々を送る自分を演出しても、
いくら友達とつるんでも、
いくら自分より弱そうな人にマウントを取っても、
欲求の本質に向き合っていなければ、不安感やモヤモヤは消えません。
この不安感やモヤモヤを食べて虎は大きくなります。
気にするべきは「他人からどう見られるか」ではなく「自分自身がどうしたいか」です。
李徴が「詩人になりたい」ではなく「詩人として名を残したい」と言っていたのにも、その自意識が滲み出ています。
結局のところ李徴は詩を作りたかったのではなく、詩を作ってちやほやされたかっただけなのです。
『山月記』の意図を一行でまとめるなら、
誰もが李徴のように虎になる恐れがあるから、自分の中の虎を飼い馴らせ!
だと、自分は解釈しています。
李徴の詩の意味と現代語訳、何が欠けているのか
【書き下し文】
偶(たまたま)狂疾(きょうしつ)に因りて殊類と成り
災患相仍(よ)りて逃(のが)るべからず
今日(こんじつ)爪牙(そうが)誰か敢へて敵せん
当時声跡共に相高し
我は異物と為る蓬茅(ほうぼう)の下(もと)
君は已に軺(よう)に乗りて気勢豪なり
此の夕べ溪山明月に対(むか)ひ
長嘯を成さずして但だ噑(ほ)ゆるを成す
【現代語訳】
たまたま心を病んだことから違う種類の生き物になってしまい 、
災いが次々と起こり逃れることができなかった。
最近では誰がこの爪や牙に敵として向かってくるだろうか、いや誰も向かって来ない。
昔は俺もお前も秀才として評判が高いものだった。
(しかし今では)俺は違う種類の生き物になって草むらの中にいて、
お前は車に乗るような身分に出世している。
この夕暮れの中、山や谷を照らす月に向かって
詩を吟じることなくただ吠えるばかりだ。
友人の袁傪(えんさん)は李徴の詩を読んで、以下の評価を下しています。
「彼の詩は一読して非凡な才能を思わせるものであった。しかしどこか微妙な点において欠けている点がある」
欠けている点があるとは?
李徴の詩の欠点とは何だったのでしょうか。
一般的には以下のように考察されています。
・人を想う心
虎となった李徴は、家族の心配をするよりも先に自分が詩人として名を残せないことを憂いています。
先にお願いすることではなかったと自嘲的に言いますが、
どこまで行っても自分のプライドを守ることしか考えていないところに、
人としての心が欠けていると読んだのかもしれません。
ただ個人的には、このエゴはむしろ人間臭いなーと思います。
・単純に実力不足
強すぎる自意識ゆえに李徴が努力を怠ってきたことは作中で述べられています。
いくら非凡な才能を感じさせても、磨き残されたところが多ければ傑作とは言えません。
・心の未熟さ
詩の出来はよくても、李徴の自己顕示欲が見え隠れしているのが上の詩です。
「心を病んだから虎になった」、「不幸が降りかかった」
という被害者意識。
「虎としての自分に誰も立ち向かってこない」、「以前は秀才扱いされて名声があった」
という唐突な自慢。
李徴は虎となった今でも、人であった過去にも自分を強く見せようとする自意識がありました。
そうなると、自嘲的になっているのも「そんなことないよ」って言ってもらいたいだけに見えてきます。
まとめ
『山月記』は学生だけでなく、社会人にもオススメできます。
新しいことを始めようと思ったときや、何かに挑戦しようとしたとき、
あなたにブレーキをかけている感情の正体をよく見てみてましょう。
それは単に面倒臭いだけではなく、
・失敗したり上手くいかなかったら嫌だ
・人より才能がないと思われるのが怖い
・人に見られるのが恥ずかしい
といった、自意識の塊かもしれません。
そんな時、あなたの中にいる虎は舌なめずりしてこちらを窺っているのです。
自分の中の虎を飼い慣らせ…まさしくそうだと思います。同意になるかもしれませんが、
自分の生き方を見直す大切さ、人としての思いやりの大切さこそ人や自分を幸せにすると
李徴がはじめて気付き始めた瞬間、人としての世が終わるわけなので、
「人はいくら賢くも人を犠牲にしては幸せになれない」「人のためになることがひいては自分の幸せだ」
ということも暗示されていると思われます。いかがでしょうか。
史記も、泣く子も黙る項王が自刎するラストシーンで虞美人のために初めて涙をみせ、郷里の友に首を差し出し、物語が完成する。人間性の獲得と人生の終末で物語が完成します。
村井さん、コメントありがとうございます!
「人はいくら賢くも人を犠牲にしては幸せになれない」「人のためになることがひいては自分の幸せだ」
たしかにこういったメッセージも作中から読み取ることができますね。
山月記は短い話ながらも、読むたびに新たな視点が見つかります。
それは当然のことながら、「今の自分」というフィルターを通しているからなのでしょう。
その意味で読書は「今の自分」と「作品」の尽きない対話体験であると思います。