ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの作品で最も有名な『車輪の下』。
主人公ハンスが学校生活に悩み苦しみ挫折するという、作者自身の体験を元にした半自伝的小説として人気を集めています。
社会の歯車となって押しつぶされていくハンスに、多くの読者が自己を投影させてきました。
もちろん、僕もその一人です。
目次
『車輪の下』のあらすじ、要約(ネタバレ注意)
著者:ヘルマン・ヘッセ
刊行:1905年
『車輪の下』を一行でまとめるなら、
社会からの圧迫による少年の苦悩、そして挫折と没落
です。
ストーリーの流れは以下のようになっています。
①受験勉強と進学
②学問と友情
③孤立と休学
④療養と就職
順に詳しく説明していきます。
①受験勉強と進学
ハンスは小さな田舎町で生まれ育ち、村一番の秀才として大人たちの期待を集めていました。
当時の一般家庭からの最大出世コースは、神学校を出て牧師になること。
教師や親の期待に応えるために、ハンスはあらゆることを我慢して勉強に励みます。
そして州の試験で好成績を収め神学校に無事合格。
家を出て寮生活が始まったのでした。
②学問と友情
神学校の勉強はこれまで以上に苦しいものでした。
しかし、ハンスは持前の才能と努力で成績上位をキープし続けます。
そんな折、同級生のハイルナーと仲良くなったハンスはこれまでの自分の生き方に疑問を抱くようになります。
そして、徐々に成績を落としていくのでした。
ある日、校長先生に呼び出されたハンスはハイルナーと縁を切るように勧告されますが、
「友達を見捨てることはできません」と拒否。
ハンスは学問よりも友情を選んだのです。
③孤立と休学
問題児だったハイルナーは、不祥事を起こしてとうとう退学となりました。
そうしてハンスに残ったのは、「学校での孤立」と「やる気の起こらない勉強」でした。
勉強についていけなくなったハンスに対して同級生は冷たい態度を取り、教師や校長も失望の眼差しを向けます。
心身を病んだハンスは休学という形で、神学校を自主退学することになったのです。
④療養と就職
故郷に戻ったハンスに対する校長や教師たちの態度は冷ややかでした。
表面上は優しい言葉をかけたり明るく挨拶してくれますが、実際のところはハンスに対する興味を失っていたのです。
彼らにとってハンスは知識を詰め込む器でしかなく、その器が自分たちの教育の成果を反映しないと分かったからです。
生きる意味を見出せないまま、それでもなんとか生きていこうとするハンスは、
機械工見習いとして友達のいる会社に就職します。
そして会社の飲み会の帰り道、酒に酔ったハンスは川に転落。
翌朝遺体となって発見されたのでした。
ハンス・ギーベンラートとヘルマン・ハイルナー
作中でハンスに負けないくらいの存在感を放っているのが親友のハイルナーです。
ハンスのモデルがヘッセ自身であることは有名な話ですが、
ハイルナーもまたヘッセ自身をモデルにしているということはあまり知られていません。
ヘッセには、
ハンスのように真面目に勉強を頑張る一面もあれば、
ハイルナーのように勉強より文学や詩に興味を持っている一面もありました。
また、
ハイルナーのように学校を飛び出して反抗することもあれば、
ハンスのように学校を中退した挫折感に苦しめられることもありました。
正反対の気質を持ったハンスとハイルナーですが、
ヘッセの内面にはこの二人が同居していたのです。
そうれば当然、自身の中で葛藤が起こります。
周囲の期待や伝統に従って頑張ろうとするハンス的側面と、
他のことは気にせず自分のやりたい道を進もうとするハイルナー的側面がぶつかり合うのです。
これは学校生活に圧迫感を感じている人だけでなく、
社会人生活に絶望している人にとっても我が事のように感じられるテーマではないでしょうか?
『車輪の下』の感想、ぶっちゃけつまらない…?
『車輪の下』に関してよく言われるのが「救いがなくて何が言いたいのか分からない」、「暗くてまったく面白くない」という感想です。
たしかに、大まかなストーリーを見るとただハンスが挫折して死んでいく物語にしか見えません。
しかし、重要な点はこれが作者であるヘッセ自身の経歴に酷似しているということです。
ヘッセは挫折を乗り越えて、死という結末を回避しています。
ではなぜ、この物語でハンスは死ななければいけなかったのでしょうか。
端的に言うと、ハンスが死んだのは「社会に対する怒りと反抗」のためだと思われます。
詰め込み教育でロボットのようになっていたハンスは、ハイルナーと出会ったことで本来の自分を取り戻しつつありました。
そして、学問よりも友情を選んだ末に挫折者のレッテルを貼られてしまいます。
故郷に帰っても教師や父親はもうハンスに何の期待もしていません。
ハンスは自分らしく生きようとしただけななのに、周囲の人間は彼を一人ぼっちにさせようとしたのです。
刷り込まれた価値観と生来の気質は激しくぶつかり合ってハンスを苦しませます。
この内面の葛藤こそが『車輪の下』の真骨頂です。
つまり、ハンスはただ学校や社会に馴染めずに挫折したわけではなく、自分らしく生きるために戦っていたのです。
だからヘッセは怒っています。
「私はあの力、すなわち、学校や神学や伝統や権威というような力に対して、
ギーベンラートがそれに破れ、私自身もかつて破れそうになった力に対して、
いささか糾弾者、批判者の役割を演じた」(『過去との出会い』1952年)
※ギーベンラート=ハンス
『車輪の下』は単なる学校批判に収まらず、
社会や伝統が個人を抑圧することや、個人がそれに盲従することへの懐疑、
内面の声に従って自分らしく生きることの大切さを説いています。
そして青春時代の危機を描くことで、その記憶と劣等感から自己を解放しようとしているという意味でも、
『車輪の下』は、何よりもまず作者であるヘッセ自身を救っているのです。
徹底した内省と、自己実現の探求はその後の作品でさらに洗練されていき、
『デミアン』や『シッダールタ』といった世紀の大傑作へと繋がっていきます。
『車輪の下』の名言
きみはどんな勉強でも好きですすんでやっているのじゃない。
ただ先生やおやじがこわいからだ。高橋健二『車輪の下』新潮社、1998年、p98
神学校の勉強に遅れることを恐れて猛勉強しているハンスに対してハイルナーが言った言葉。
自分で望んで取り組んでいるつもりでも深層心理は誰かの期待に応えるためだったり、
やらないことで怒られたり失望されることを恐れているためだったりします。
そして、最初は違ってもいつの間にかそのようになってしまうことは誰にでも起こり得ます。
それは生活のためだったり、自己顕示欲のためだったり、
自分の心が分からなくなった時は、一度足を止めてこの言葉を問いかけてみてはどうでしょうか?
疲れきってしまわないようにすることだね。
そうでないと、車輪のしたじきになるからね。高橋健二『車輪の下』新潮社、1998年、p122
校長先生に呼び出された時にハンスが言われた言葉。
「車輪の下敷きになる」はドイツのたとえで「落ちこぼれになる」という意味があるそうです。
このシーンでは同時に「ハンスが社会に抑圧されて押しつぶされる」ことを示唆しています。
あすこに行く連中も、あの子をこういうはめに落とす手伝いをしたんじゃ。
高橋健二『車輪の下』新潮社、1998年、p219
ハンスの葬儀に集まった牧師や先生、父親を指してフライクが言った言葉。
期待して詰め込み教育を施して、結果が出ないと分かれば挫折者扱い。
死んだら死んだで、「才能ある若者が…」と惜しみ悲しむそぶり。
ハンスが死んだのはハンスを追い込んだ大人たちにも責任がある、とハッキリ言っています。
優しさは相手への期待や打算から来るものでしょうか?
もしそうだとしたら、その人はいずれ車輪の下敷きになってしまうでしょう。
まとめ
『車輪の下』で描かれた青春の危機は、何らかの形で誰もが経験することだと思います。
そして、誰だって車輪の下敷きになんてなりたくはありません。
作中ではハンスを通して挫折と没落が描かれ、ハイルナーを通して克服への道が暗示されています。
伝統や権威や社会の目に惑わされず自分自身の道を歩こうとする人は、ぜひ一度『車輪の下』を読んでみることをオススメします。
また、活字で読む気にならない方やざっくりと内容だけ把握したいという方には、
漫画で読破シリーズから出ている『車輪の下』もオススメです。
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