僕の10代20代は暗黒の日々でした。
いわゆる「キラキラした青春」とは無縁です。
しかし、暗黒の青春時代を過ごしたことに後悔はありません。
人生が何回もあるなら他の道を選ぶこともあるかもしれませんが、
1回きりの人生なら闇落ちルートを選んで正解だったと思っています。
目次
青春コンプレックスをブログで消化する
いきなり言い訳がましくなってしまいましたが、
なぜ僕が暗い青春時代を選ぶのかには3つの理由があります。
理由その1:性格が向いてないから
僕の性格はキラキラした明るい青春を送るには不向き過ぎます。
少しだけ過去を振り返ってみましょう。
何の間違いか、小学校時代の僕は多くの友達に囲まれていました。
一見明るく見えますが、その実は極めて臆病で内向的な性格。
一人で本を読んだりゲームをしたり、レゴブロックで遊ぶのが好きな子供だったのです。
しかし、世間体や他人の視線を小学生らしからぬレベルで気にしていたので、
学校では周囲から浮かないように元気な小学生を演じていたのです。
初めて太宰治の『人間失格』を読んだ時には自分が重なりすぎて大きな衝撃を受けました。
理由その2:暗い青春でしか出会えないものがあるから
暗い青春にも色々種類があります。
いじめられていた。
心身の問題で自分の殻にこもりがちだった。
周囲に上手く溶け込めなくて浮いていた(ハブかれてた)。
例えばこんな感じですが、暗い青春の持つ特性の最たるは、
「孤独である(孤独を感じる)こと」ではないでしょうか?
当時の僕は孤独感を紛らわすために、たくさんの本を読んだり音楽を聴いていました。
そして、そのような心境でないと良さが分からなかったり、
我が事のように感情移入できない作品が数多くあることを知ったのです。
そんなものに出会った時は、いつも知己を得たような気分になります。
理由その3:劣等感と焦燥感を向上心に変換できたから
僕は一人でも楽しく過ごせるし、ずっと一人でいいと思って生きていますが、
たくさん友達に囲まれている人たち、楽しそうに遊んでいる人たち、上手にコミュニケーションを取れる人たちに対してそれなりの劣等感がありました。
というか、社会的能力が欠如していると先の人生で苦労するということが分かっていたので不安で仕方なかったのです。
もちろん、周囲に上手く馴染めるけどあえて一人を選んでいる人は大勢いると思いますが、
僕の場合はその能力が欠如しているから、人として足りない部分がたくさんあるから一人になっていただけなのです。
大切なものが欠如しているという劣等感と、それを補わなければという焦燥感。
この記事の結論にも繋がってきますが、そうした感情がエネルギーとなって、
最低限のコミュニケーションができるように頑張ろうと思えたり、
自分を知り、鍛えて、成長しなければ生きていけないと思ったのです。
適度に恵まれて楽しい青春時代を過ごしていたら、
このようなハングリー精神は身につかなかったかもしれません。
青春コンプレックスが辛い心理
上記の理由から、僕は明るく楽しい青春時代を選ばないと書きましたが、
それによって経験できなかった、失われた時間や可能性は確かにあって、
得たものに対しての得られなかったものの大きさに、気持ちの面で折り合いがつけられずに苦しむこともあります。
自転車で走っている制服姿の学生を見た時や、「時をかける少女」のような青春作品を見た時にふっと襲ってくる鬱感情。
何にでも言えることですが、
その時にしかできないことがあって、その時を過ぎて同じことをしても意味がないことはたくさんあるのです。
その機会を逃してきた人に二度とチャンスは無く、遠くから眺めることしかできない。
そして眺めることしかできないからずっと追いかけ続けてしまう。
青春コンプレックスをこじらせた人間は、ある意味でずっと青春状態になってしまうのです。
その感傷は楽しい青春時代を経験してきた人への羨望と憎悪に変わることがあります。
例えば、学生時代が終わり社会人になって結婚して家を建てれば、
多くの人は相応の落ち着きを持ち、色んな意味で大人になります。
10代のような遊び方はできないし、そんなことをする余裕も暇もない。
たまの連休に昔の仲間と集まって飲んだりBBQをするのが関の山です。
そして、それは「楽しい青春時代」を経由してたどり着いた大人の余暇の過ごし方です。
対して青春コンプレックスをこじらせた人は、大人になり切れないまま年だけを重ねていきます。
周りの人が散々遊びまくってから大人になっていくのに対して、自分だけは一貫して苦しいまま。
「なんで自分だけが苦しいまま大人にならなければいけないんだ」という、
僻みに似た憎悪が大人になることを拒否するのです。
これは思いっきり自己責任ですね。
追い打ちをかけるような話になりますが、
楽しい青春時代を送った人はその時期に多くのことを学んできたので、
社会人になっても楽しく過ごせる、上手く立ち回れる人が多いです。
つまり、楽しい青春時代を送れた人はその後もずっと楽しく生きていけるけど、
苦しい青春時代を送った人は、その後もずっと苦しい人生を送る可能性があるわけです。
強引で決めつけが強い意見だとは自覚していますが、
そのような状態になっている人は大勢いると思っています。
勝ち負けの話ではないのですがゲームに喩えるなら、
勝って経験値を得て強くなっていく人に対して、
負けて経験値が入らないからずっと弱いままでいる人、
青春時代を楽しめた人とそうでない人の構図はこれに似ているのです。
詳しくはこちらの記事でも書いてます。
繰り返し言いますが、青春時代を楽しめたから勝ちとか、苦しんでいたから負けと言いたいわけではありません。
どっちが良い悪いでもないし、僕は後者だったことに後悔はありません。
ただ、世間的に見た時にどっちが有利か、どっちが良いかという価値観は残酷なほどに存在しています。
楽しんで来たか、来なかったのか、その差は社会での立ち回りに分かりやすく表れるからです。
実際に、青春時代を苦しんだ側として言わせてもらうなら、
社会で生きていくうえで価値観の違いを思い知らされる場面は多々あります。
例えば、飲み会やBBQのようなイベントで周囲のテンションや会話についていけない、
まったく楽しくないと感じてすぐに帰りたいと思ってしまうことがあります。
こうなってしまう背景には複数人グループでの立ち回り方、会話の仕方、ノリ、楽しみ方といった、諸々の経験が欠如していることが挙げられます。
自分なりに溶け込む努力をしても楽しもうとしても後の祭り、どうしても演技になってしまいます。
だからといって、隅っこで肩をすぼめていると暗黙の嘲笑と軽蔑の眼差しが向けられます(残酷な場合はその場で絡まれたり、注目を浴びて公開処刑されます)。
そこまで直接的でなくても「あ、コイツつまんない奴だな」、「陰キャかよwダサwww」と線引きされて、
これまた暗黙で格付け(もちろん最下位)されることもあります。
青春コンプレックスによる鬱を解消する
このように、青春コンプレックスを拗らせた人は大人になれないまま、
「楽しい青春時代」を追いかけ続ける生ける屍と化します。
アニメや映画などで描かれる眩しい青春に憧れて、
自分がその青春を経験することができないと分かっているから絶望する。
この繰り返しで貴重な時間を浪費していくのです。
青春コンプレックスの克服、眩しい青春時代を送れなかったことに対する復讐。
そんな方法があるのかは分かりませんが、ひたすらに自分を鍛え続けることには意味があると思います。
青春コンプレックスを拗らせた人は、その後も苦しい人生を歩む可能性がある。
そうなってしまうのは経験値が足りなくて社会人というステージに付いていけないから。
だったら答えは一つ、トレーニングをして経験を積めばいいのです。
その鍛え方と方法は十人十色です。
例えばこんな感じ。
・人と上手にコミュニケーションを取る訓練をする
・趣味や好きなことを極める
・お金を稼いで社会的に勝ち組になることで劣等感を払拭する
・人との交わりを断って自分独自の世界を追求する
・周りが羨むような恋人を作る努力をする
そのままの自分でいて、教室の隅っこに追いやられる人生を送るのが嫌なら、
どこかで自分を改革しなければいけません。
そのための燃料は苦しかった青春時代に大量ストックされているはずです。
ただ、それ以上に大切にしたいのは他人の青春と比べてどうかとか、
他人を見返したい、青春に復讐したいというよりも、
自分自身が本当にやりたいこと、楽しいと思えること、
そんな軸となる価値観を見つけてそこに全力を注ぐことだと思います。
それができれば青春コンプレックスとして、
苦い青春の記憶に振り回されたり、キラキラした青春に憧れ続ける衝動も少しは収まるかと思います。
青春コンプレックスを拗らせている人にオススメの本↓
コメントを残す