「子供のように一日一日を生きる人間こそ、もっとも幸福だ」
ゲーテの名言を集めた本に書かれていた言葉にページをめくる手が止まりました。
「それができれば幸福なのは分かってんだよ!」という声が聞こえてきそうな…。
子供のように、とは本当に子供みたいに立ち振る舞うことではなく、広義的な意味での若さを指しています。
そして若さとは何も持っていないからこそ、何者でもないからこその、
失うモノのない状態でどこまでも攻めの姿勢で突き進むことができる力だと解釈しています。
ゲーテに思ってた以上に当たり障りないこと言われて「はあ…」と思ってた僕ですが、
その意味を考えている内に、
「今の自分は守りに入っていないだろうか?つまらない大人になってないだろうか」
と考え始めてしまったわけです。
そんなわけで今回は守りに入ることについて考えてみました。
守りに入るのは何かを手に入れた時
お洒落なカフェで優雅にコーヒーを飲みながら書かれた記事と、
マクドナルドでポテトをコーラで流し込みながら書かれた記事、
どちらが読みたいですか?
最近、自分の記事を読み返してみたら、媚びすぎてるというか狙いすぎてるというか…、
何だか本音と演じている部分のバランスが悪くなってきてるような気がしたんです。
なぜそんなことになってしまったか考えた時、自分でも無意識のうちに守りに入っていたのではないかと思いました。
デッドです。
渡辺・イズ・デッド、由々しき事態ですよこれは。
人生守りに入ると体型や身なり、話の内容、考え方、気力、体力、食べる物、あらゆる部分にその影響が現れます。
守りに入るキッカケは恐らく何かを得た時か諦めた時。
地位、名誉、お金、家庭など、何かを成したと感じて頑張る必要や理由が無くなることが原因ではないかと思います(もしくはその逆)。
僕は自分では何も得てないと思ってたけど、ニートだった頃と比べると流石に色々手に入れたので慢心していたのかもしれません。
守りに入った人は全てがつまらない
何も持っていない時は宝物を得たいと思って走り続けますが、
年齢を重ね色々なモノを手にすると、寝転がってそれを眺めるだけになってしまいます。
仮にそれが映画だとしたらどうでしょう?
冒険の旅に出て、困難を乗り越えて宝物を手に入れる物語と、
自室でゴロゴロしているだけの映像。
どちらが面白そうかは一目瞭然です。
そもそも、その宝物って本当に宝物なんでしょうか?
皆が羨んだりはやし立てるから、ちやほやするから宝物だと思い込んでるだけかもしれません。
会社員にならずに個人で生きてくと決めた人間なら、
所有欲よりも手に入れるまでのプロセス、挑戦と成長を目標にしていなければ多分生きていけません。
上がっちゃった人、守りに入った人の書く文章なんて一つも面白くないんですよ。
守りに入るな、攻め続けろ
文章における守りに入った状態とは進歩が止まった状態。
書きやすい型が身について書くことに慣れてくると小手先の技術で記事を量産することができます。
しかし、文章を書きまくることは確かに上達に繋がりますが、勉強しなくなるのは危険な状態と言えます。
ベタな例として、野球のイチロー選手が毎年バッティングの型を微妙に変えていたというエピソードがあります。
その理由は、ずっと同じ動きだけしていると他の選手に分析されて攻略されてしまうから、だそう。
新しい型にしてもそれもすぐに研究されてしまうので、常に変化を求め続けられていたということです。
プロ野球選手は特殊なケースだからと思うかもしれませんが、
普通の人は特殊な状況じゃないからこそ守りに入ったままダラダラ生きることができてしまいます。
歳を重ねるにつれて保守的になり、恥をかけなくなり、失敗を恐れるようになり、冒険できなくなり…、
もしも僕が「家を買いたい」とか「結婚したい」みたいなコラムを書き始めたら、その時が本当の最後です。
生ける屍、ゾンビ、リビングデッド。
「この人も終わりか…」と思って、どうぞ唾を吐きかけて立ち去って下さい。
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