・逆境は乗り越えなくてもOK
・逆境に向き合って悩み苦しむプロセスが大切
・平穏は退屈
青春コンプレックスの体育教師
中学校時代の思い出。
受験戦争も終盤に差し掛かり、最後の学力テストが行われました。
この結果が内申に繋がるし志望校の判定にも繋がります。
ただの中間期末テストとは異なる緊張感が教室には漂っていました。
試験官は教室とは無縁な体育教師。
普段はグラウンドや体育館で荒っぽく号令をかけているような、正直言って苦手なタイプでした。
問題用紙が配られて開始の音が鳴るまでの沈黙の間。
彼は急にしおらしいトーンでぽつりぽつりとこんなことを語りだしました。
「今回が最後のでかいテストだ。
ここまで緊張感のある瞬間って普段の生活の中では意外とないぞ。
大人になればどんどん少なくなってくからな。
もしかしたら、この中には “ テストを受ける緊張感 ” はこれが最後って人もいるかもしれないな。
今、真剣な顔してテストに取り組めるお前らが羨ましいよ」
一字一句同じわけではありませんが、こんな内容でした。
普段とのギャップと、こんなことを考えるのか(失礼ながら)という驚き。
初めて大人の本音を垣間見たようなショックで、この時のことはよく覚えています。
(テストの内容と結果は何も覚えていないというのに)
逆境が苦しい青春時代
体育教師の何気ない一言がずっと頭の片隅に残っているのは、
自分の価値観に一石が投じられたように感じたからです。
当時の僕の中では、人生の苦しみや生き辛さといったものが年々大きくなっていました。
緊張感やプレッシャーのかかる場面は増えてくるし、人付き合いのへぼさには拍車がかかっている。
何をやっても上手くいかないような気がするし、自分には何もできないような気もする。
分かりやすく言うと人生に絶望していたのです。
当時、体育教師の一言で何かが変わったかというとまったくそんなことはなく、
それから何年もの間、下手くそな人生を這いつくばりながら進むことになります。
その時の心境は「とにかく楽になりたかった」。
もう平穏に安全に過ごせれば何でもよくて、河川敷でゲートボールをやったり焚き火を囲んで雑談してる老人が羨ましいと思っていました。
実を言うと、今だって僕の人生は楽にはなっていないのです。
僕の青春が「苦しみ」だったとするなら、今も青春真っ只中であることは間違いありません。
むしろ今まで自己嫌悪だけだったのに加えて、最近では苛立ちのような感情も出てきています。
しかし、10代はパニック状態だった胸中も冷静さを持つようになり、
振り返ってみれば、逆境や生き辛さ、緊張感が無ければここまで成長できなかったんじゃないか、
もとい、偉そうに「今は成長しました」なんて言うつもりもなく、「成長しようと思える向上心」が備わってなかったんじゃないかと思っています。
Ifの話をしても仕方ないけど、全て順風満帆で面白おかしく歩いてこれたら、
今よりもっと甘ったれで人の気持ちの分からない、それでいてダサい感性とセンスの人間になっていたんじゃないかと思うのです。
苦しいのも辛いのも緊張するのも嫌だし、あえてする必要なんてないけど、
そういった場面で得られる経験値はメチャクチャ大きいのです。
そんな意味で逆境は必ずしも乗り越える必要はないし、
極論、成功したり勝ったりする必要もないのかもしれません。
ボコボコに負けて失敗して自信や自尊心を失って「トラウマになっただけ!マイナスしかねぇよ!」と思っていたことですら、
それが原因でさらなる成長を求めようとして、色々勉強することに繋がっていったので。
逆境は乗り越えるのではなく、立ち向かうもの
「若さが幸福を求めるなどというのは衰退である」
三島由紀夫は『絹と明察』でこのような言葉を残しています。
意味深ですが、「苦労は買ってでもしろ」に近いニュアンスを感じますね。
僕は苦労を買いたいとは思いません。
わざわざ自分で用意しなくたって、普通に生きていれば山ほどのしかかってくるからです。
しかし、そんな苦労を見て見ぬふりしたり逃げることができる時期が、10代から20代ではないかと思います。
現実に向き合わず「辛いから楽になりたい」、「楽して生きたい」というスタンスで幸福を求めるのは衰退である、と三島は言いたかったのでしょう。
最初から最後まで、まったく憂いなく全てに満ち足りている人生なんてありません。
そんな意味で「幸福=苦労や辛いことのない人生」と結び付けてしまうと、存在しないものを探すことになってしまいます。
地球に酸素があって日が昇り沈むくらい当たり前に、世の中には苦労も辛いことも存在します。
デフォルトとしてある以上、へこたれない強さ、乗り越えようとする強さ、成長しようとする強さを持つこと。
そういった「気持ちの強さ」を持とうとする姿勢、プロセスの中に幸福感を見出していかないと、
とてもじゃないけど正気ではいられません。
逆境に向き合ってないと時間差で弊害が出る
教室での体育教師の言葉。
当時は学生時代を思い出しているだけの単なる懐古、感傷だと思っていました。
しかし、今ではもう少し踏み込んだ詮索をせずにはいられません。
もしかしたら彼は、感情の起伏が減った平穏な生活の中に停滞、そして緩やかな衰退を感じていたのではないでしょうか。
緊張と不安に押しつぶされそうな時間。
上手くいくか分からない挑戦。
あの時の教室には確かにそんな空気がありました。
「いつも通り」が増えていけば、そういった場面は確実に減っていきます。
日々の中での面倒なことや憂鬱なことはあっても、瞬間瞬間の爆発のような時間は無くなっていくのです。
爆発の中にいるときは苦しくてたまらなかったけど、そこから離れてしまうと人生は退屈です。
そして、一度離れた人は容易には戻れない、厳密に言うと爆発する体力と気力が無くなっているのです。
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