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いつかどこかで見た「いちめんのなのはな」の記憶

車を走らせていると、田んぼ道の小川沿いに菜の花が自生していました。

高速道路下、田んぼ、夕暮れ、菜の花。

なんとなく自分の感性に引っかかるワードがぶわっと頭の中に広がってきて思わず停車。

車から降りて周辺を歩き回りました。

いちめんのなのはな…ではない

菜の花といえば山村暮鳥の詩が有名ですね。

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

山村の夕暮れ空を飛ぶ鳥。

牧歌的な雰囲気の名前は調べてみるとペンネーム、

暮鳥の本名は「土田 八九十(はくじゅう)」だそうです。

はくじゅうとは独特な…というか、本名も土属性的なものを感じさせる名前なんですね。

「いちめんのなのはな」でお馴染みの『風景 純銀もざいく』は、多くの学生が一度は学んでいる作品です。

そのため暮鳥の名前は知らなくても、「この詩は知っている」という人は多いかもしれません。

菜の花の随筆

ぎょっとするくらいに並ぶ「いちめんのなのはな」。

文字が写真や絵に勝った瞬間。

この詩には否応無しに頭の中を菜の花畑にしてしまう強力な魔法がかかっています。

 

菜の花が見られる観光スポットは全国各地にありますが、

有名所に行ったことのない人でも、「いちめんのなのはな」の景色はわりと鮮明にイメージできるのではないでしょうか。

それはまったくの想像というわけではなく、多くの人の中にある「いつかどこかで見た菜の花畑」の記憶が共鳴しているからだと僕は考えます。

というのも、菜の花は川沿いの堤、河原、空き地、放置された畑などどこにでも自生するので、

わざわざ観光地に行かなくても、誰もが名もなき「いちめんのなのはな」の景色を一度は見ているはずだからです。

もちろん僕の中にも、いつどこで見たのかはっきりとしない「いちめんのなのはな」の記憶があります。

まったく「いちめん」ではない、この小川沿いを撮ろうと思ってしゃがみこんだ時、

視点が子どもくらいに低くなったことで、視界は菜の花でいっぱいになりました。

なるほど、そこそこに生えた菜の花でも子どもの高さで見ていれば、

それは視界いっぱいに広がる「いちめんのなのはな」になるのかもしれません。

もしかしたら、詩を読んだ時の暮鳥も、子どものようにしゃがみこんでいたのかも、などと思ったり。

【おまけ】写真と想念

「アルルの跳ね橋」の構図で撮った「田舎の石橋」。

ずいぶん延びた日と穏やかな空。

もやがかっている遠い思い出を呼び起こすような、

何かがひっかかる懐かしい一枚になりました、僕にとっての僕だけの。

こういう感じの高速道路下が好きです。

旅をする人、仕事で遠方に行く人、色んな車がせわしなく走っている真下で、

驚くほど閉じた世界で僕は一人になった気になっています。

そんな時、「ずっとここにいたい」という気持ちと「遠くへ行きたい」という気持ちが交錯しているのを感じます。

病めるは昼の月ってやつです。

ここには植えられてないけど、菜の花は桜とセットになって咲いていることが多いです。

何でもない道路の脇や、誰も見向きもしない川沿いの道にぶわっと広がったりしています。

とうとうと言うか、ようやくと言うのか、

昨今ではいよいよこういった景色も少なくなってきている印象で、

護岸工事により土部分ががっつりブロックになっていたり、

野原だった場所にマイクラで作ったような無機質な家がずらりと立ち並んでいたりします。

できれば適度に野良の自然も残しておいて欲しいと思っていますが、

こればかりはどうしようもない感じですね。

きっと昔はこの小川にだってメダカやゲンゴロウが泳いでいた時期があったんですよ、たぶん。

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