世の中世知辛いなーと思って少しでも愚痴れば、
どこからともなく駆け寄ってきた人が、
「生きづらくしてるのは自分のせい!」
「もっと苦しい人はたくさんいる、甘えるな!」
「その程度で生きづらいとかどんだけ豆腐メンタルなんだ!」
と厳しい現実を突きつけてくる。
ここまで激詰めされるのってネットの中だけじゃないの?
と思われる方もいるかもしれません。
確かに、実際にこんなことを言ってくる人はあまりいません。
ただ、やんわりとオブラートに包みながら(包めているつもりで)、
わかった風にたしなめてくる輩はたくさんいます。
「皆わかってて頑張ってるんだから」
「君はまだ恵まれてるほうだ」
こんな感じに。
皆がどうとか、誰かと比べてじゃなくて、
今、自分が、生きづらいって話をしているのに!
今回はそんな話です。
生きづらい世の中なので
生きづらい世の中なので、皆さんストレスが溜まっているんじゃないでしょうか?
もちろん、生きやすいと感じている人は大勢いると思いますが、
それと同じかそれ以上に生きづらいと感じている人も大勢いると思います。
それでは何が生きづらいのか。
人間関係、環境、個人的な問題、なんとなく。
要因を挙げればキリがありません。
一つ言えるのは、
「生きづらい」とはあくまで主観的な問題だということです。
例えば、酸素濃度が低かったり極寒の地域は、物理的に生きづらい環境だと言えます。
しかし、一般的な社会で言われる「生きづらい」とはベクトルが違います。
社会では例に挙げたような物理的な苦しさではなく、
一人一人が自分だけの生きづらさを抱えて生きています。
だから、「皆辛いんだから」と当たり前のことを言って叱咤したり、
「もっと苦しい人は大勢いる」と異なるジャンルの苦しみを比較対象にしたり。
そんな言葉が、自分だけの生きづらさを感じている人にとってどれだけ的外れなのかは、考えるまでもありません。
生きづらいのは甘えなのか?
生きづらいと感じて憂鬱になってしまうのは甘えなのでしょうか?
いったん「甘えかもしれない」と仮定して原因を考えてみました。
・メンタルが弱い
・社会経験が少ない
・性格がねじ曲がっている
メンタルが弱ければ些細なことでもショックを受けてしまうので、世の中は生きづらいかもしれません。
社会経験が少なければ、社会の荒波に揉まれた時に溺れてしまいます。
あれも嫌だこれも嫌だと言ってうがった目で社会を見るのは、単にひねくれた性格なだけかもしれません。
しかし、世の中を生きづらいと考えるのは本当に甘えなのでしょうか。
僕はむしろ逆だと思っています。
生きづらいのは考えすぎ?
生きづらいと感じるのは甘えでも、性格が歪んでいるわけでもなく、普通のことだと思います。
例えば、僕が「1日8時間以上の労働を週5で行うのはおかしい」と言えば、
「そんなネガティブな考え方じゃ駄目だ」
「そんなこと言っても仕方ない、考えすぎだよ」
と言われたりします。
確かにその労働環境は正社員であれば普通のことです。
むしろ、その条件なら生きやすいホワイトな環境だと言えます。
しかし、社会的に見て普通かどうかではなく常識を捨てて考えてみると、
貴重な時間のほとんどを労働に費やしている世の中はおかしいのでは?と思えてきます。
年間休日が120日で労働日数が240日なら、
1年のおよそ2/3を働いて過ごすことになります。
大卒(22歳)が定年(65歳)まで働いたとして43年。
43年間のほとんどの時間を労働に費やす生活。
これはイカれてます。
「社会ってこんなもんだから」、
「これが普通だから」、
「こうしないと生きていけないから」、
そんな定形文句では誤魔化しきれない「生きづらさ」を僕は感じました。
「ごちゃごちゃ言ってないでいいから働け、考えすぎだ」って話かもしれません。
しかし、僕からすれば「お前らもっと考えろよ!」って話です。
僕の場合は、働くことが嫌というよりは好きでもないことに人生の2/3を投じることはできないと考えました。
誰もが好きなことを仕事にできるわけではないので、それこそまさに甘い考えなのかもしれません。
だったらなおさら、どうすれば好きなことをして生きていけるか本気で考えた方がいいんじゃないか?と思っていました。
嫌いな人が多いから生きづらい
今度は人間関係の面での生きづらさを考えていきましょう。
保身や虚栄心のために平気でウソをつく人。
人を傷つけたり、叩くことで自尊心を保とうとする人。
自画自賛しか自己顕示欲を満たす術を知らない人。
ここでパッと挙げた以外にも、
僕にはたくさんの苦手な人、嫌いな人がいます。
だからそういう人たちが幅を利かせているコミュニティやグループに入ってしまうと、
とんでもないストレスと生きづらさを感じます。
学生時代なら黙ってそこを離れれば済む話ですが、
社会人になるとそんな簡単に関係を切れなくなる場面が増えます。
世の中に腐臭を放ちながら蔓延しているのが「人を嫌うのはよくないこと」という風潮。
明示されているわけでも、誰かが声高に叫んでいるわけではありませんが、
なんとなくぼんやりと生暖かい「仲良し主義」が満ち溢れています。
仲良しはいいことだと思います。
しかし、その実態は陰口と陰湿ないじめのオンパレード。
子供から大人まで、どんな世代にも欺瞞的な「仲良し社会」が築かれています。
なぜ、こんなことになってしまうのでしょうか。
要因はたくさん考えられますが、
多くの人がウソをつきながら「仲良し主義」を気取っているからだと思います。
誰も嫌わない、皆で仲良くする、
そんな社会が実現できればいいことかもしれません、
けど、そんなのはウソです。
他人を苦手だと思う、嫌いだと思う気持ちは誰でも持っているからです。
自然と湧き上がる気持ちに対して、
「そんなネガティブなことを思ってはいけない」、
「嫌いでも表面上は仲良くしなければ」、
と無理に気持ちを押さえつけて蓋をするからストレスが溜まっていきます。
それが一杯になった時、相手へのいじめや無視といった態度に現れてしまうのです。
まず前提として見直さなければいけないのは、
他人を苦手、嫌いだと感じることはまったく悪いことではない、
ということです。
苦手、嫌いだと感じることは、価値観が合わないことが分かったということ。
それが相手を理解するということです。
しかし、嫌いだ苦手だからといって相手を攻撃することを許容してはいけません。
理解できない相手を排除したり悪だと決めつけるのは、幼稚で野蛮な行為だからです。
つまり、人と仲良くするとは、
価値観をピタリと合わせて手を取り合うことではなく、
様々な違いを理解し合って相応の距離感で付き合うこと、
だと僕は考えています。
その部分にまで踏み込まず、ただ面倒な衝突を避けるためだけの仮初の仲良し空間を作ろうとするから、
その矛盾が「生きづらさ」となって現れているのではないでしょうか。
生きづらい、助けて!
「生きづらさ」に関してハッキリと言えることがあります。
それは世の中を生きづらいと感じるのは正常な反応だということです。
だから、生きづらいと感じてしまう自分を責める必要はまったくありません。
そんな風に思うことは人間なら誰だってあります。
世の中は理不尽なことだらけです。
狂ってるとしか思えないようなことはいくらでもあるし、
どうしても合わない、嫌いだと思う人は大勢います。
そんな風に感じてしまう自分の心を押さえ込むことはできません。
「ゴキブリが怖いなら怖いと思うことをやめれば?」と言われても無理です。
お腹が痛い時に「治れ!」と念じても治りません。
それと同じで、生きづらいと感じることを止めることはできないのです。
生きづらい世の中への対策
話がごちゃごちゃしてきたのでまとめに入ります。
生きづらいと感じている人は、その生きづらさにとことん苦しめばいいと思います。
生きづらいと感じているのに無理して合わせたり、
それを生きやすいと肯定するのはもはや宗教です。
前向きに、楽しく、感謝しましょう!と何でもかんでも問答無用で肯定しようとするのは思考の放棄です。
だからと言って、生きづらい世の中と戦えと言ってるわけでも、変えろと言っているわけでもありません。
今生きづらいと感じているなら、その生きづらい世の中はそうそう変わらないので、
自分なりの距離感と付き合い方を見定めて、生きづらい世の中と共存してくのがいいと思います。
おもしろきこともなき世を面白く
すみなしものは心なりけり
こちらは高杉晋作の有名な詩ですが、感覚としてこれに近い気がします。
世の中が生きづらいのは自分の心がそう感じるからです。
他人や環境が変わるのは期待できません。
つまり、生きづらい世の中をどう処理するかは自分の心次第ということです。
「生きづらい」という感覚にとことん向き合って自分で答えを出すしかありません。
まとめ
■社会が生きづらいのではなく、自分の心が生きづらいと感じているだけ
■生きづらいと感じるのは普通のこと
■生きづらさに向き合いながら、自分にとっての生きやすさを追求する
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