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都会に憧れる田舎者

平凡と非凡なら、誰だって一度は非凡に憧れます。

土地で言うなら、自分が住んでいる街は平凡で、

大きな建物やお店が立ち並ぶ都会は非凡である、という感じに。

 

昔ほど聞かなくなりましたが、

僕が高校生の頃は、「都会への憧れ」を抱いている人はまだ多かった気がします。

今回はそんな平凡非凡のお話です。

都会に憧れる理由

昨年、僕は初めて北九州の福岡に行ったのですが、

空港でレンタカーを借りて市街地に向かっていると、そこに見えたのはなんとも不思議な景色でした。

夕方18時近いのにカラッとした強い日差し、

点在する船と、植物が生い茂った小島がぽつりぽつり。

「これのどこが不思議な景色だ?」と思うかもしれませんが、

僕にはその景色が珍しく感じられたのです。

「こりゃあ、ちょっと決闘するのに適した無人島なんていくらでもありそうだねぇ」

なんて巌流島の武蔵と小次郎に思いを馳せていました。

 

それじゃあ北九州の景色が非凡で、静岡は平凡なのかと、

そんな風に思ってしまうと、僕は貧しい心で旅をすることになってしまいます。

北九州の人にとって当たり前の景色が、僕には珍しく写ったように、

僕にとっての平凡な静岡の景色は、他者から見れば非凡でもあるのです。

 

これは都会への憧れについても同じことが言えます。

田舎に住む人は都会暮らしに憧れて、都会に住む人は田舎暮らしに憧れる。

自分の住む場所が平凡で、非凡な異国は理想郷だと思っていると、

どこに行っても平凡ばかりに目が行くことでしょう。

都会に憧れても現実は…

ここじゃないどこかに理想郷がある。

あそこに行けば幸せになれる。

そういった過度な憧れは、現実逃避になります。

何年かブログをやっていて、特に強く思うのがそのことです。

 

ブログ記事一つ書くだけでも、格好つけて「どうだ!」と言いたくなるような自意識が出てきます。

格好つけたがるのは、どこかで自分の平凡さにうんざりしているから。

「映えるような貴重な体験談や実績なんて持っていない」

「何かに書けるほどの知識や技術を持っていない」

「人を楽しませるような文才なんてない」

他人が非凡に見えて自分が平凡に思える、という劣等感からついつい見栄を張りたくなりますが、

大抵の人も、同じように「自分は平凡で非凡な人はたくさんいる」と思っているもの。

 

おおげさな表現をしたり、無理にドラマチックにしなくても、

最もリアリティを持って他者に非凡を感じさせるのは、自分にとって平凡ないつもの風景だったりします。

近所の公園を散歩して街路樹を眺める。

街路樹の木は○○という種類で、春には緑の葉をいっぱいつけて、風に揺れる姿が美しい。

例えばそんな風に、自分の周りを、自分にとっての今のリアルを、細部まで観察して丁寧に描写する。

今できること、見えてることを改めて丁寧に観察し直すという体験は、平凡の中に非凡があることを再確認するためのいい訓練になります。

同時に、自分の感性がいかに省エネで記号化された情報のみで自分を動かしていたかに気付かされるのです。

 

いつも通る道にある老舗の餃子屋さん。

大きな看板が目印ですが、看板のデザインや配色については何も思い出せません。

その場所に看板があることは認識しているのに、細かい部分はまるで見ていないのです。

自分の身近にある物すらしっかり見ていない人が、異国の地を旅して面白い発見ができるのでしょうか、いや、無理でしょう。

 

土地でも、文章でも同じ。

憧ればかりが先行して平凡を嫌うと、とにかく派手な物を見ようとするし、凄く見せようとしたくなります。

まずは自分にとっての平凡をよく見ることを大切にしようと思いました。

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